中山道

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彦根市に入り、高宮宿まであと一息です。
出町、葛籠町、法士町がすぎると犬上川に出合います。

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犬上川にかかる、無賃橋。
江戸時代初めには橋がなく、水量が多いときは川越人足に頼っていました。明和4(1767)年、出水時に橋板をかける仮橋ができましたが、橋板は流出することが多く、高宮宿の有志により本格的な橋が架けられました。この橋は無料で開放されたため「むちんばし」とよばれました。

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犬上川。この日、橋の上はものすごい強風でした。

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高宮側。

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江戸から64番目の宿場、高宮宿に入ります。宿の石高は美濃の鵜沼宿に次いで高い、大きな宿場でした。

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高宮宿には、本陣1軒、脇本陣2軒がありました。また、旅籠屋も多い時には25軒もありました。
本陣の表門は今も残っています。

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高宮宿の名産は、高宮上布。古くから高宮でされ、江戸時代には近江商人により全国にはこばれました。彦根藩では将軍への献上品や贈答品としていました。

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多賀大社一の鳥居に到着しました。滋賀県指定有形文化財です。かつては木の鳥居だったところ、朽ちていたため、寛文11(1634)年に再建が計画されたものです。

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今回の中山道ウォークはここで解散。
次回は鳥居本~高宮宿です(^_^)こうご期待。

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伊藤忠兵衛旧宅からは、思い思いの速度で中山道を歩き、豊郷小学校で合流。

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1873
(明治6)年、四十九院村など7ケ村で三つの小学校が設立され、1989年に統合されて尋常科至熟小学校になります。初代校舎が老朽化すると、卒業生であり丸紅の専務であった古川鉄次郎が故郷への恩返しとして私財の寄付を申し出、昭和12年にウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計による校舎と講堂が完成します。当時は「白亜の殿堂」「東洋一の小学校」と称されたといいます。
 伊藤忠兵衛を叔父に持つ古川鉄次郎の思想は、校舎の階段手すりに置かれたウサギとカメの像に象徴されています。誰も見ていないところでも努力し、ゆっくりでも前に進むという鉄次郎の考えを多くの子供たちがみてきたことでしょう。
 平成11年に校舎改築の計画が出されると、校舎保存の運動が話題となったことは記憶に新しいところ。現在は耐震補強工事が行われ、子育て支援やシルバー人材センターなどとして使用されています。なによりここ5年ほどは、アニメ「けいおん!」の舞台になったことで注目を集め、聖地として全国からファンが集まってきています。

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ファンが寄贈したアニメ関連のグッズ。

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昼食は小学校の旧図書館、酬徳記念館の、けいおん!カフェにて。コスプレの若者に交じって昼食をとる、いつもの中山道ウォ-クにない光景です。

 


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すっかりのんびりして、予定時間をすっかりオーバー。そのアバウトさもまた「いがぐりの会」らしさ?小学校の門をでると、次は高宮を目指します。

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ケヤキ並木があらわれると、そこは彦根市です。

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千樹寺からしばらく行くと、ほどなく「又十屋敷」の看板が見えます。

建物には「豊会館」の看板が。ここは近江商人 藤野喜兵衛の旧宅です。

歩き始めたばかりだけれど、やはりここは入っておかねば。

玄関で入館料を払うと、美味しいお茶の接待まで・・
そして館長さんに藤野家や江州音頭の丁寧な説明をいただきました。

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江戸後期、ここ枝村の若き商人、藤野喜兵衛は北海道に渡りました。そして「柏屋」の屋号と「又十」の商標で廻船業者として活躍したのです。松前藩からは絶大な信用を得て、漁場を任され、鮭・鱒を捕獲して大阪方面に売る。そして近江からは近江米を積み北へ・・いわゆる鋸商法で藤野家繁栄の基礎を築きました。そして近江商人の「三方よし」の理念の通り、藤野家は地元にも貢献しました。天保飢饉の際には庶民救済の策として「飢饉普請」を行ったのです。説明を聞く座敷からは、その折に造られた「松前の庭」を見ることができます。

藤野家4代目の辰次郎は、明治時代、北海道根室で払い下げを受けた工場でサケ缶製造を始めます。缶には開拓使の旗印である北辰の星印が許され、そのブランド力から成功をおさめます。4代目没後、缶詰は日魯漁業へ譲渡され、マークも星印からあけぼの印にかわっていくのです。

藤野家旧宅は昭和初期からは役所として使用されます。そのため現在の名称「豊会館」がつけられました。役所として使用されなくなってからは荒廃。それを地元の企業家の協力で「豊会館」として再生。企業家夏原氏の膨大な美術品等も収蔵展示されています。

説明していただいた館長さん、江州音頭の由来となると、自ら江州音頭の一節を披露。説明とともに名調子に引き込まれ、すっかり長居してしまいました。



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又十屋敷をでてさらに北へ。

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そろそろ、アニメ好きにはたまらない豊郷らしさが・・・

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ほどなく伊藤忠兵衛記念館の板塀が見えてきます。もちろん、門をくぐらせていただきます。そして、せっかくなので、ここでも記念館のお話を聞かせていただきました。

ここは伊藤忠、丸紅の創始者伊藤忠兵衛の旧宅です。繊維品の小売業「紅長」家に生まれた忠兵衛は、近江麻布をもって商いをはじめ大阪で繊維問屋「紅忠」を開設、事業を広げていくとともに、地元豊郷でも村長を務めるなど地域にも貢献。2代目忠兵衛はイギリスに留学、国際化にむけ奔走し、現在の総合商社としての基礎を築くのです。
ところで今年度大学生の就職人気ランキング男子文系2位、男子理系 4位の伊藤忠商事ですが、丸紅もふくめ、新任研修はこの伊藤忠兵衛屋敷で行うそうです。「三方よし」の近江商人の原点を学んでいくといいます。

さて、次は旧豊郷小学校を目指します。 


五月晴れの日曜日、久しぶりの中山道ウォークです。

能登川駅からバスで、近江鉄道愛知川駅へ。


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人気のない駅前で、本日の日程を聞きます。


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中山道にはいります。

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愛知川宿を進んでいきます。

河脇神社、井上神社、石部神社などを通りすぎ、街並みをながめつつ歩いていきます。式内社の石部神社は、この日、お祭りだったようです。

 

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街並みが途切れると、宇曽川に出合います。

一級河川の宇曽川は、水量が豊富で、舟運が盛んだったといいます。井伊家の年貢米や、丸太などが運ばれていて、「運送川」が「うそがわ」になったとか。

宇曽川にかかっているのは、歌詰橋。その由来は・・・

天慶三年、藤原秀郷が平将門を切り、京に上る途中この橋にさしかかりました。そこになんと目を見ひらいた平将門の首が飛んできたとのこと。秀郷は将門の首に、歌を一首といい、将門の首は歌に詰まってこの橋に落ちた・・そこで「歌詰橋」というようになった、との伝説です。

この恐ろしげな伝説の橋から北は、豊郷町です。

 

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歌詰橋を渡り、しばらく行くと左手に千樹寺がみえます。ここは「江州音頭発祥の地」と大きく掲げらています。行基が開いた近江四十九院の一つといわれ、織田信長によって焼かれたものの、天正十四年に再建。この時の落慶法要で経文に節をつけ唱え、踊ったことが江州音頭の始まりということです。

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しばし休憩し、中山道を歩き出します。つづく。

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不破の関をでて、しばらく行くと国道に出会います。そのまま関ヶ原の駅方面に歩いて行きます。ひだり手に見えてくるのが西首塚です。関ヶ原合戦戦死者数千の首級を葬った塚とされています。さらに進んで行くといよいよ関ヶ原の戦い決戦の地です。  

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東首塚。大きな銀杏の木が見えます。家康は敵味方の兵士を東首塚、西首塚とに葬らせました。


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徳川家康最後の陣地という陣場野に関ヶ原町歴史民俗資料館があります。合戦の様子が屏風や甲冑などの資料や、映像で解説されています。

今回の中山道ウォークはここで解散。

元気な三人は古戦場めぐりへ出発。


そのほか6名は関ヶ原駅から帰路につきました。




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おまけ。
街道で発見したもの。
≪ご当地マンホール≫

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