都名所圖會ウォーキング、今回は七条界隈です。

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11月24日。紅葉シーズン真っ盛りでごった返す京都駅で、長蛇のバス乗り場を横目にみながら、徒歩で出発。まずは朱雀門の復元模型を見学し、塩小路通りを東に。まずは、三十三間堂に向かいます。

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三十三間堂(蓮華王院)に到着。

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この一帯は後白河法皇の院御所、法住寺殿があったところです。蓮華王院は当時政治の実権をにぎっていた平清盛が寄進しました。都名所圖會には、頭痛で悩んでいた後白河院が因幡薬師に詣で、法皇の前世である蓮華房の髑髏が今だ朽ちず柳の根が貫いているとのお告げがあった。この髑髏を観音に籠め、三十三間堂を建立したとの説話が書かれています。蓮華王院は鎌倉時代に燃えたものの、旧来通りに復元されました。南北に長いお堂には中央にご本尊の千手観音坐像。そしてこれから今年国宝に指定された千体の千手観音立像がならびます。期間限定で御像を正面から観ることができる高台も設置されていました。

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お堂をゆっくり拝観した後、正月の通し矢でしられるお堂を一周し、太閤塀や南大門、夜泣き泉を見学しました。


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外国人が多い三十三間堂をでて、養源院へ。養源院は、淀君が父浅井長政のために建てた浅井氏の菩提寺です。その後焼失するも、妹の江が伏見城の遺構により再建しました。伏見城落城の際に残された血痕がのこる血天井でもしられます。今回は時間がないので拝観はせず、南に隣接する法住寺へ。

後白河院の法住寺殿は広大なものでした。

後白河院の女御健春門院がなくなると院の一角に陵として法華堂を建立します。その後院の御所は木曽義仲の焼き討ちで炎上。そして上皇が崩御すると健春門院の法華堂に隣接してあらたに法華堂をたて葬られました。明治に陵は移され、寺名も変更されますが、古来の名をのこすため昭和になって法住寺にもどされました。


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次に智積院へ。その一角の智積院会館一休庵さんでランチ。あたたかいお蕎麦などであたたまります。

智積院は真言宗智山派の総本山。

その昔は真言宗の根本道場であった根来山に数多く建てられた塔頭寺院のなかの学頭寺院でした。しかし豊臣秀吉と対立し、天正13年(1585)、秀吉の軍勢により、根来山内の堂塔のほとんどが灰燼に帰してしまいます。その時、智積院の住職は高野山に逃れ、慶長3年(1598)には、東山で智積院の再興の第一歩をふみだします。慶長6年(1601)には、徳川家康により、東山の豊国神社境内の坊舎と土地が与えられ、智積院が再興されました。

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智積院は庭園や長谷川等伯の障壁画ものこされますが、今回はタイトなスケジュールのため次の目的地へと向かいます。
智積院をでると、おしゃれなカフェを横目に、坂道を上ります。


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智積院の奥に鎮座するのは新日吉神宮(いまひえじんぐう)です。法住寺殿が広大な寺域を占めていた時、その鎮守として日吉大社から勧請されました。狛犬ではなく神猿(まさる)が出迎えてくれます。勝、魔さるに通じることから縁起が良いといわれています。


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新日吉神宮の坂をおりるとすぐに妙法院です。

天台三門跡といわれ、近世には方広寺や蓮華王院を管理下におきました。鎌倉時代には祇園のあたりにあったといわれます。庫裏は国宝です。豊臣秀吉が先祖のために行った千僧供養で台所として使われたとされています。内部は特別拝観の時にしか見られませんが入口はあけられており、天井の高い巨大な台所、そこにある立派な竈ものぞくことができます。


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幕末の文久三年には、公武合体に反対する勤皇急進派の三条実美らが集結、西国に向かった「七卿落ち」の舞台としてしられています。

妙法院をでると住宅地の合間をぬって豊国神社へ。豊国神社の手前に広場があります。

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ここは2000年に発掘調査が行われ大仏殿の遺構がでたところで、八角形の大仏殿の基壇が見つかったところでした。遺構は埋め戻されて保護されています。奈良の大仏をしのぐ規模であったことが発掘調査でもあきらかになったのです


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広大な敷地があった方広寺ですが現在は豊国神社横の堂舎のみです。ここには歴史をゆるがした有名な梵鐘があります。「君臣豊楽」「国家安康」こう刻まれた文字が大阪冬の陣の口実となったのです。大きな事件の引き金になったエピソードもさることながら、巨大な梵鐘の鋳造に思いをはせてしまいます。


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方広寺梵鐘の横はすぐ豊国神社です。現在の社殿は明治13年に建立されたもの。

国宝の唐門は伏見城の遺構です。

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豊国神社をでると正面通りを西に。少し行くと左手に耳塚が見えます。秀吉の朝鮮出兵で首級の代わりに削がれた戦死者の鼻が埋められたのがこの耳塚です。慶長2年に築かれています。方広寺大仏殿ではその年戦死者のための施餓鬼会がおこなわれたとのことです。「都名所圖會」にはオランダ人が塚を眺める光景が描かれています。

このあとは正面通りをひたすら西に。


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鴨川を渡りしばらく行くと右手に、レトロな建物が・・。

この建物は世界の任天堂の旧社屋です。もとは花札をつくっていて、その後カルタを作るようになりました。いまでも本社は京都にあります。

さらに高瀬川を渡り歩いて行くと。渉成園にいきあたります。

渉成園はこれから向かう東本願寺の飛び地境内。周囲に枳殻を植えたことから枳殻邸ともいわれます。1936年に文人趣味にあふれる仏寺庭園として国の名勝に指定されています。ここに立ち寄りたいとの参加者の意見もありましたが、残念ながら入園できる時間をすぎていました。

さらに西へ。

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本日の終点、東本願寺です。

この日は真宗門徒にとって最も重要な儀式である報恩講の最中でした。親鸞聖人の命日である11月28日までの1週間勤められます。28日には体を強く前後に動かしながら念仏と和讃がよまれる「坂東曲」が勤められます。

今回はここ東本願寺にて解散。お疲れさまでした。

次回は東福寺と泉涌寺に向かいます。